>>秋雨武候
 午前11時。あの忌々しい水男はこの家を去った。わしは縁側で心地よい日向を浴びながら、あの忌々しい水分男のことを思い出す。
「全くもって忌々しい奴じゃ。この家に上がりこむだけでも、わしは許せんというのに」
 それにしても、あの2人の何と仲の良い事よ。本当にこのまま、夫婦にでもなってしまいそうじゃ……。
「ならぬ! それだけはならぬ! わしの可愛い孫を、よりによってわしの学校の生徒に奪われるなど、あってはならぬ事じゃ!」
 璃々はもっと、安定した収入があって、それでいて品のある、もっとしっかりした殿方と結ばれるべきなのじゃ! あんな、どこの馬の骨とも知れぬ輩に奪われてなるものか!
 少し冷えたお茶をすすりながら、わしは庭を眺めやる。丹精込めた日本庭園よ、今日も美しいのぅ。
「邪魔者がいなければ、じゃがな」
 わしは庭の一角に鋭い視線を送った。
「……よく分かるな。本気出して隠れた俺を見つけた奴は、1人もいないっていうのに」
 庭で一番立派な松の木の裏から、1人の男が出てきよった。真っ黒なフードに隠れたその顔には、まるで鳥の嘴の如きマスクが光っておる。
「日本庭園は調和の美。たとえ気配が無くとも、その全身真っ黒の格好では、世界から浮くというものじゃ」
「ちぇ」
「お主、何の用じゃ? セールスマンでは無さそうじゃな」
「いやなに、ただの露天商ですよ」
「こんな場所で店を開く意味が分からんわい。嘘が下手じゃのう」
「上手い嘘をつくつもりは無いんでね」
 黒ずくめの男はポケットから、刃渡り10センチほどのナイフを取り出し、わしに向けた。
「これは仕事ですよ。お宅のお孫さんを、うちのボスのもとへご招待します」
「これはこれは。ほっほっほ……」
 愉快そうに笑って見せると、男の眉間に皺が寄った。分かりやすい奴よのう。
「わしの孫は昔から『追われてる』と言っておったが、実物を見るのは初めてじゃ。いやいや、本当にいたのじゃな。ほっほっほ……」
「爺さん、冗談言ってる場合じゃないぜ?」
「わしは本気じゃ」
「なら話は簡単だ。目的の子は俺が預かる。たとえ爺さんを殺してでもな」
 男は隙の無い動きで、ジリジリとわしに近付いて来る。
「『わしを殺す』じゃと? ふん、小童めが!」
「爺さん、俺を舐めない方が良い。その老体で何が出来るって言うんだ?」
「舐めておるのは、お主の方じゃ。わしの機嫌が悪い時にやって来た事を、後悔するが良い!」
 和服の裾を捲くりながら、わしは戦闘体勢を取る。あの水分男と何度も鬼ごっこが出来る程、わしの運動神経は良いのじゃ。
 さて、この礼儀知らずの若者をこっぴどく叱り飛ばしてやるか。あの軟水男のせいで溜まったストレスを発散するには、良い機会じゃのう!




>>カラス
 俺が組織から手渡されていた、あの少女の面相は、8年も前のものだ。だから俺は、それに8年分の年月を重ねた顔を探し続けていた。候補者が浮かび上がり続ける一方で、以前までの候補者の可能性は消え続ける――無限とも思えるイタチゴッコのお陰で、すっかりやる気が無くなる者も少なくなかった。
 調査の末に突き止められた家には、爺さんと婆さん、それに大分と年の離れた子供の3人しかいない。それは、俺の懸命な調査で判明していた。その子供が、組織の探していた女の子だと分かったのは、つい最近の事だ。
 そしてある日、ふと気付いた。
「8年前から成長してなくね、あの子?!」――と。
 まさか、成長しない人間がいるとは思わなかった。たとえ勘の鋭い奴でも、どうせ他人の空似なんだろうなぁ〜、位にしか思っていなかった。そう、手渡された8年前の資料と同じ顔の少女が、まさにそこにいたのだ!
 斯くして少女は、俺達組織の数多の目を、ただ暮らすだけで逃れていたのだった。


 本当なら昨日、さっさと仕事を終わらせるつもりだった。でも昨晩は偶然心獣省長がいたのだ。何だよあいつ、何で急に泊まるんだよ。俺、何も聞いてねぇよ。
 その男を追っ払ったのは、目の前にいるこの爺さんだ。日本一強い男を追い出した事で、俺の仕事もようやく再開出来た。後は、誰も気付かないうちに、目的の子を連れ去るだけだったのに……。


 俺は懐から、大量の羽根を取り出した。俺自らが選りすぐんだ、丈夫で大きな烏の羽根である。これは俺にとって、ナイフ以上に大事なものだ。
「悪いけど爺さん、これは、手加減出来る様な代物じゃないですよ」
「グダグダとうるさい奴じゃのぅ。若い衆は、さっさと殺しにかかれば良い」
「いやなに、俺もこんな簡単に殺人者にはなりたくないもので」
 これは半分嘘だ。この爺さんは自身の心獣で、校舎の火事を消火したらしいからな。つまり、雨を自在に降らせる能力、という事だ。しかも、俺に一切の隙を与えない構えから、相当の手練である事が分かる。
 とは言え、ここで引いてばかりいる訳にはいかない。
「それなら若気の至り、咲かせて見せましょう……ぞ!!」
 俺は両手の羽根に、俺の心獣を集中させる。ビロードに光るそのエネルギーは、羽根を包み込み、そして実体化した。
「骨まで切り裂け、『ハード・カバー』!!」
 放った羽根はまるでダーツのように、烈火の如く直進する。俺の心獣は、対象をガラスでコーティングする能力。普段ならヒラヒラと舞う羽根も、今では鋭い切っ先を持つ矢に等しい。
 とはいえ、ただ投げただけでは、ただのダーツの矢に過ぎないが。
「ふん」
 案の定、矢は爺さんの生み出した大雨の壁に衝突し、地面に叩きつけられた。
「これだけか? つまらんのぅ」
 不満そうな顔を見せる爺さん。あれだけ大風呂敷を広げて見せたんだ、そうなるのも無理は無い。
 だが! これが俺の計算!!
 俺はさっきの攻撃の隙に、偏りをつけて心獣コーティングを施した羽根を、いくつか投げつけておいたのだ。爺さん、あんたの死角である背中目掛けて、ブーメランのような軌道を描きながらな!!
「やったぜ! 勝った! 俺の勝利だ!!」


 俺の羽根は見事に刺さった。床に。
「……あ?」
「航空機トラブルの原因の1つに、『ダウンバースト』なるものがあるのを、ご存知かのぅ? 上空から地面へ向けて垂直に吹き付ける、急激な気流の事なのじゃが」
「う、動くな!!」
 俺は慌てて、懐から全ての羽根を取り出し、爺さんに狙いをつける。
「(……何が起こった?)」
 爺さんはまだ縁側から出てきていない。周囲の様子から見ても、雨の心獣を使った形跡は一切見受けられない。それなのに、何故だ? 何故、俺の攻撃を、手も振れずに全て撃ち落したんだ?
「ま……まだだ! まだ俺には勝機がある!」
「そうかも知れぬのぅ」
「今から全ての羽根を、全力で投げつける! 羽根は軽さ故に速度が出るし、俺の心獣のお陰で耐久性も出る! どれだけ激しい雷雨だろうと撃ち落されない、全力の攻撃をしてやる!」
「そうじゃ、それで良い」
 パチパチ、と拍手をする爺さん。
「この全力のぶつけ合いこそが、正統なる心獣勝負というもの。お主、分かっておるようじゃの?」
 全てを包みながらも、全てを支配するかのような、やけに恐ろしい目をする爺さん。その恐怖を打ち払うように、俺は絶叫しながら一斉掃射を行った。
 俺の羽根の矢は、計算され尽くした形状をしている。気体を飛ぶ上で最も効率的な形状を追求し、何度も計測を行ってきた。そんな俺の努力の結晶は、俺の持ち得る最高威力を持って加速し、散弾銃のように爺さんを襲う。
 どうだ、俺の心獣は。なんてったって、力の入れすぎで、あやうく腕が釣りそうだったからな。しかし、そのリスクを背負ってでも本気を出した甲斐はあった。見たら良い、俺の矢が、音速を超えて空間を歪めている姿を。あんな刃を受け止められるのは、この世界でもそう沢山はない――!!


「悲しいのぅ、小童」
 くい、と動く老人の中指。その瞬間、爺さんと矢の間に、巨大な岩石が現れた。いや、岩石が地中から姿を現したのだ。巻き上げられた土砂のように、俺の放った矢も、岩石の表面に軽く弾かれ、そして舞い上げられる。
「自分を磨くのは得意でも、周囲を何1つ利用出来ない……若さじゃな」
 岩石の浮上と共に発生する、大地を震わす振動。この時俺は、この老人に対し、大いなる勘違いを抱いていた事に気付いた。
「爺さん……まさか『地球を操る』心獣使いか?!」
「大袈裟じゃのぉ……『環境を操る』程度の心獣じゃ。参考までに、わしの『マレフィセント・ヴァリエーション(異常気象)』の本髄を味あわせてやろう」
 ふと、自分のいる場所だけが、やけに暗い事に気付いた。あの岩石を掘り出す際に巻き添えを食らった土砂が、俺の頭上で漂っているのだろう。瞬きよりも速い世界の中で、俺が考えられたのは、ここまでだ。
「ほれ、最後の環境じゃ。落雷警報、頭上注意……とな」

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