>>The Voice Of Energy
 星観町と月島町をつなぐ月島橋。その下を流れる川は今、真っ赤に染まっている。
「水ちゃん!!」
 袂から聞こえる、璃々の悲痛な叫び声。その視線の先には、体に穴を開けられた水鏡が、川辺で横たわっていた。
「32秒」
 ルシールは口を開く。
「あっけない幕切れだったわね、彼氏さん?」
 彼の負傷部位は、上半身の左側。傷口からは数本の肋骨と心臓の断面が見えている。文字通り『致命傷』というやつだ。
「そのまま静かにしていれば、安らかに死ねるわ。そうすれば私も、あなたの彼女を傷つけずに済む」
 次にルシールの視線は、璃々に向けられる。
 ――が、いない。
「?」
 つい先程まで草むらの陰に隠れていた彼女は、いつの間にか水鏡のもとまで駆け寄っていたのだ。
「何をしているの?!」
 璃々は、水鏡の傷跡を何度も撫でていた。自分を守るためについた風穴――いたたまれない気持ちになるのは、当然だ。
「水ちゃん、待っててね。私がすぐに治してあげるからね?」
「すぐに立ち上がりなさい! その男の頭ごと消し飛ばされたいの?!」
 掌を出して警告するルシール。それが功を指したのか、璃々は大人しく立ち上がった。両手から流れる鮮血、すっかり小さくなった背中。それを見てルシールは任務の完了を悟った。
「変な気を起こさない事ね。その人を大切に思うのなら、私の言う事を聞きなさい」
 しばらく惚けたままの璃々。
「そう、それで良いの。両手を背中に運んで、地に伏せなさい」
 しかし、璃々は動かない。その様子にルシールはイラッとした。
「今すぐ地に伏せなさい!」
「……や」
「何ですって?」
 ゆっくりと、しかし力強く振り返る璃々。その表情は怒りに満ち、そして固い意志が現れていた。
「水ちゃんの命令なら聞くけど、あなたはいや」
「その死体を見たのに? 殺されるかも知れない、この状況で?」
「いやなものはいや。分かってくれないの?」
「話にならないわね」
 彼女の右手から放たれたのは、今までで一番小さな心獣だった。人間の拳大のそれは、璃々の左足を包み込み、踝からを切断した。
「あう!」
 足を失い、その場に跪く璃々。
「残念だけど、足の1つや2つくらい奪え、という命令なの。自分の生命が守られていると勘違いしているのなら、すぐ改めなさい」
「……や」
「これでも反抗するつもりなの?」
「いやだからいやなの」
 その時ルシールは、璃々の足から放たれる緑色の光を、璃々の心獣を目の当たりにした。
 彼女から確かに奪った左足は、切断面からニュルニュルと生え始め、肌色の固まりは徐々に足へと変化し、指を作った後、璃々に大地を踏ませたのだ。
「まさか……治癒の心獣? あり得ない……あんなスピードで足を治すなんて……そんなのあり得ない!」
「ねぇ、ルシールさん」
 璃々は両手を広げて見せる。
「もっと攻撃しないの?」
「あ……ぅ……」
「ねぇ?」
 その眼光は、ルシールの半生で最も恐ろしく、威厳に満ち溢れていた。
 その声色は、ルシールの半生で最もクリアに、体中を震わせた。

 声にならない雄叫びをあげながら、ルシールは心獣を放ち続けた。
 それ以降の戦いは、実に凄惨極まるものである。ルシールが璃々の体を破壊し続け、璃々がそれを治癒し続けた。
 開いた傷口から大量の血が吹き飛ぼうとも、璃々は体を地に横たえる事無く、ただひたすらに心獣を浴び、体を腐らせ続け、そして再生し続けた。
「はぁ……はぁ……!」
 肩で息をするルシール。彼女の心獣は、体力の消耗が激しい方だ。それを無計画に放ち続けるのだから、ペースを気にしないランナーよろしく、彼女の体力はみるみる衰えていく。射出口である右手も、ガクガク震えて止まらない。
「何してるの……出してよ……私や水ちゃんを殺そうとしたそれを、私にもっと出してよ!?」
「う、うわあぁあ!!」
 狂ったようにルシールは心獣を放ち続けた。璃々の体の破片が飛び散っているにも関わらず、少女の体は次々に元の状態へ戻っていく。
 ルシールは、心の中では気付いていた。本当は心獣を使用するべきではない。再生能力があるなら、この行為は無意味なのだ。一刻も早く少女を、ここから連れ去らなければならない事を、とうに理解している。
 それでも彼女は、自分の愚かな行為を止める事が出来なかった。精神で打ち負かされたためだ。それも、自分より年下の少女の不気味な威圧感によって。

 どれくらい経っただろうか。とうとうルシールは膝から崩れ落ちた。
「こんな事が……あり得ない……」
 自分よりも大きな体を、璃々はコロコロと転がす。その行き先はそばの川だ。
「ゴメンなさい。本当はこんな事したく無いんだけど……」
 そう語る彼女の手には、大きな石が握られている。
「私は、水ちゃんを守らなきゃいけないの」
「自由にしなさい……私は暗殺者……いつだって覚悟は出来てるの……墓なんていらないわ」
「殺さないよ。ただ、ちょっとだけ気絶してもらうだけだから」
「情けなんていらないわ……早く殺して!」
 しばらく彼女を見つめる璃々。
「死んじゃダメだよ?」
「私は組織のために、何人もの人間を殺してきた。私は常に殺そうとする相手に、殺される覚悟で仕事をしてきたわ。これは彼らのためでもあるの。あなたは私を殺さなくちゃいけないの!」
「ちがうの、そういう事じゃ無いの!」
 璃々は大きく首を振った。
「私達じゃなくて、ルシールが殺されちゃう」
「私が……?」
「私をつれていけなかったら、ルシールは殺されちゃうよ」
「それはそうよ。『失敗は許されない』――ここへ来る前、そう言われたもの」
 その時、ルシールの頬に何かがこぼれた。涙である。いつの間にか璃々は泣いていたのだ。
「そんなの、変だよ……仲間なのに、信じてもらえないなんて、そんなの絶対変だよ」
「甘いのね」
「私は水ぢゃんを信じでるじ……グス……信じでるがら、がんばれるもん……」
「子供の証拠よ」
「わだじ……ルジールのごど信じでるよぉ゛……うっう……」
「……はい?!」
 怪訝な顔をするルシールをよそに、璃々の涙は止まる気配を見せない。
「わだじはルジールのごど、ぜっだいでぃ信じでるもん……グス」
「呆れた子。私は敵よ?」
「だっで、だっで……」
 涙を拭き取る璃々。
「だってルシールは、水ちゃんにとどめささなかったもん!」
「それは、別に大丈夫だと思って――」
「それに、私が投げ飛ばされた時も、私に気をつかってさらわなかったもん!」
「それよりも、あの男を始末する方が先だから――」
「とにかく! ルシールは絶対に良い人なの! そんなルシールがこんな事する人だなんて……あ、またなみだが……」
 感動を通り越して、ルシールは呆れ果てていた。命を狙った暗殺者を気遣う人間が、どこにいるというだろうか? この娘、頭がおかしいのではないのか?
 しかし、その厚かましさも、今のルシールには心地よく感じた。理由は特に無い。ただ、理由だとか理屈抜きに、この感覚を味わいたかったのだ。
「もう泣き止みなさい。私だってこれでもう限界なのよ?」
「うん、ぐずん……ずび」
「こんな子供に諭されるとは思わなかったわ。せめて死ぬまでの間くらい、考えておいても良いわ」
「ありがとう」
 涙で真っ赤になった目で、ニッコリと笑う璃々。暗殺者の教育ばかり受け続けてきたルシールにとって、それはまるで天使の微笑みのように見えた。
 もっと早く、この子と出会えば良かった――ルシールは脳裏の片隅で、そう感じた。

「それじゃ、えい!」
 ルシールの額に走る、鈍い衝撃。璃々が手にしていた石を振り下ろした証拠だ。消え行く意識の中、彼女はずっと考える。
 『結局それはやるんかい』――と。

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