>>命
「くっはぁ〜!ようやく終わった〜!」
最後の授業のチャイムが鳴ったと同時に、渓は思わず叫んだ。周囲の視線を気にもかけずにそう叫ぶ彼女のあの根性に、私はほとほと感心する。
「と言うわけで、あたしは今日もクラブだけど、命はどうするの?」
「私?そうね…私は智尋と一緒に、このまま帰る事にするわ。練習頑張るのよ。」
「分かった。それじゃ、また明日ね〜!」
渓は元気一杯な声で、教室を後にした。彼女の背中が消えてから、私は教室を見渡した。教室には数人の生徒が、クラブや帰宅の準備をしていた。渓と違って私や智尋は帰宅部なので、よく一緒に帰る事がある。
「さ、智尋。私たちは帰るわよ。」
「…あれぇ?命ちゃん、帰りの車があるんじゃないの?」
「あら、鋭いわね。」
そう、一緒に帰るとは言え、玄関を出た場所で車が停まっている事の方が多いため、あまり長い事一緒に帰っているとは言えないのが事実だったりする。尤も、よく彼女を車に乗せて送る事の方が多いので、結局一緒に帰っているけれど。
「良いわ、いつも勝手に帰っているから。さ、行きましょう。」
「は〜い。」
靴を履き替え、私たち2人が玄関を後にした時、或いは智尋が今日の遅刻についてブーブー文句を言っていた時、ふと目の前に1人の少女が車を待っているのに気がついた。
「あ…。」
さすがの智尋も、思わず小さな声をあげていた。右前髪のヘアピンが印象的なショートカットの少女は、彼女の声に気付いてこちらを振り返った。誰が見てもその光景は、私とその少女の目が合い、空気が固まったというものだった。彼女の目は、恐らく私だけにしか分からないと思うけれど、自然に吊りあがっていた。きっと私もそうなのかも知れない。どちらにせよ、智尋は蔑ろにされていた。
「……あら、葉隠さん…。」
「穂積さん、御機嫌よう…。」
いつもよりも、風が寒く感じた。きっと敵対者とまともに対峙してしまったせいなのだろう。
「…それにしても、あの葉隠グループの大社長令嬢ともあろうお方が、そんな一般庶民と歩いて帰ろうだなんて、面白い話ね。」
「そうかしら?こうやって若い頃から体を動かしていた方が、きっと健康的に過ごせるに違いないと思うけど?」
「…これから大社長になる人が、毎回毎回わざわざ足で歩き回るとは、想像もつかないわ。忙しい会社だ事。」
「腐っても日本人だからよ。この国ではこれで丁度良いの。…まぁ、半分他国の血が混ざっているあなたには分からないかも知れないわね。」
「……っ!」
後輩である私に言いくるめられ、彼女は歯軋りを立てんばかりの勢いで、歯を強く噛み締めていた。
彼女の名前は穂積セラ。私よりも年上の高校3年生で、今や高等部随一の『お姉様』だ。さらに彼女は各分野の頂点に立つ者のみがなり得る団体『王室の会員(ソロリティメンバー)』のトップにまで就任している。日本人と外国人のハーフである彼女は顔立ちが良く、気品ある立ち振る舞いから、その地位に上り詰めたのだという。ただし、彼女は決しておしとやかなタイプでは無く、むしろ興奮すると手が早くなるため、皆に好かれているかと言えばそうでは無いのが現状だ。
「あら、迎えがやって来たみたいだけど?」
「…本当、私はこれで失礼するわ。」
穂積さんのその声に、もはや冷静さは無かった。あからさまな憤怒が込められた声でそう言い放つと、到着した車にさっさと乗り込んでしまった。ゆっくりと開かれた窓から、何の遠慮も無い鋭い目つきで、彼女はさらにこう付け加えた。
「あなた…覚えていなさい。」
「覚えておくわ。あなたが忘れるまで。」
煤くさい煙を吐き出しながら、彼女を乗せた車は私たちを残して消え去っていった。車がいなくなった後も私は校門のほうを見つめたまま、しばらく呆けていた。
「ねぇ…。」
そんな私を元の世界に引き戻してくれたのは、他ならぬ智尋その人であった。今まで蔑ろにされていたけれど。
「…あぁ、ゴメンなさいね。」
「命ちゃん、どうして穂積さんと仲が悪いの?」
確かに、そう言えば智尋に詳しく話をした事が無かったのかも知れない。私はしばらく考え込んだ後、少し重いであろうその口を開いた。
「彼女は『王室の会員』のカリスマ担当なの。」
「『お姉様』って事?」
「そう。つまり彼女は事実上、この優盟女学院のトップに君臨していると言っても過言では無いの。」
「うぅん…それは分かるけれど、でもどうして命ちゃんとケンカするの?」
私たちは誰からと言う事も無く、玄関を後にして、校門へと歩き始めていた。もうすぐ梅雨の季節だと言うのに、空気は乾いていた。
「確かに、『王室の会員』は元々発言力を持っていた先輩たちの指名によって受け継がれてきた、時には委員会以上の発言力を持つ存在よ。でも、それには条件があるの。」
「『条件』…?」
「そう。それは『新しいメンバーは他のソロリティメンバーに気に入られなくてはならない』というものよ。」
「わぁ、結構難しそう…。」
「難しいのよ、これが。少しでも気に入られなければ、候補からすぐに除外。いくらあの団体に仲間入りしたとしても、本当に1番とは限らないの。」
途中で通り過ぎていくクラブの生徒たちに軽い挨拶を交わしながら、尚も私たちは校門を目指して歩いていた。
「こういう時にこそ、人間関係の恐ろしさってものをひしひしと感じるわよね。何せ向こうはこちらの人格を品定めしているわけなんだから。」
「…あぁ、そっか。命ちゃん、一応その試験したんだったね。」
「そう。99%予想通り落ちたけどね。」
「それで命ちゃん、ちっともケンカの理由が分からないんだけど…(汗)。」
「フフ…ゴメンなさいね、説明し忘れたわ。」
智尋が妙に鋭いツッコミを放った時、私たちはちょうど校門を出た瞬間だった。
「簡潔に言うわ。私はもうすでに時期お姉様候補であって、年下のくせに力を持っている私に嫉妬しているのよ。」
「あぁ〜…そう言えば命ちゃんに『お姉様』って呼んでいる後輩がいたのは、そういう理由だったんだぁ〜。」
「そうよ。あの子たちは私の仔猫ちゃんだから、何か困っていたら智尋の方からも助けてあげてちょうだい。」
「良いよ。でも命ちゃん、どうしてそういう話をしてくれないのー?」
「あなたに話すと、話がややこしくなりそうな場面ばかりだったから。」
そんな拗ねる智尋の様子が楽しくて、私が笑っていた時だった。不意に背後から、野太い声が聞こえてきた。
「お嬢さん、ほんの少しだけお時間を…。」
ふと足を止めて振り返ったとき、そこには奇妙ないでたちの男が立っていた。
「俺は…武本幸助と言います。」
智尋も振り返って、驚いた顔をした。多分、誰でも驚くだろう。想像して欲しい。日本屈指のお嬢様学校の校門に上下ジャージ姿の中年男性が、手に輪ゴムを絡ませながら人を待っていた事を…。
「何か用かしら?」
「あ、あなたは、強い男は…す、す、好きですか…?」
ますます意味が分からなくなってきた。ますます意味が分からなくなってきたけれど、ここはまともに答えた方が早いだろうと思った。
「それじゃあなたは、男は弱くあるものだと?」
あ、しまった。つい遠まわしに言っちゃった(汗)。
「と、と、と、とんでもない!やはり男は強くあるべきです!」
「ふぅ、通じた(汗)。」
私が意味も無く一安心した時、その面妖な男は動いた。
「お嬢さん…。」
そう小さく呟くと、男は右手に巻きつけていたゴム――恐らく髪をくくるものだろう――を1つだけ選ぶと、それ以外を全て左腕に巻きつけた。そしてゴムを掌に乗せ、握り締めた。
「これを…。」
そうキザに呟くと、彼は掌をゆっくり開いた。すると先程のゴムは忽然と姿を消し、代わりに1輪の小さな花が、男の掌にそっと乗せられていた。
周囲に響き渡る程の鈍い音と共に、この不審者はアスファルトに倒れこんだ。変な出血したりしないだろうかと心配したが、それも無さそうだった。
「強くないわね…。男っていうのはもっと、女を押し倒すくらい強引じゃないとね。」
「命ちゃん…それは命ちゃんだけだと思うなぁ…。」
変な出血はしなかったらしいけれど、不審者は体をピクピク震わせていた。
「仕方が無いわ。私が彼に引導を渡してあげるわ。」
「て、手加減するよねっ?」
「当たり前でしょ。私の心獣が本気を出せば、あばら骨の5,6本くらい折れていたわよ。」
私は不審者の首の根元にまで近付き、彼の首の地肌を確認した。汗だくで濡れた肌が夕陽を照らす様子がまた、何とも可哀相な気がしなくも無かったけれども。
「智尋、少しだけ離れていなさい。感電しても知らないわよ。この人、やたら汗かいているから。」
私は彼女が2歩後ろへ下がった事を確認してから、人差し指を1本だけ不審者の肌に触るか触らないかギリギリの場所で止めた。
「まさかあなた、これで終わりにする気なのかしら?」
何かが弾けたような音が周囲に響いた瞬間、男の体はビクンと激しく跳ね上がった。そして、どこか焦げ臭い匂いを漂わせながら、男はそのまま動かなくなった。
「み、命ちゃん〜!し、し、死んじゃったよぉ?!」
「慌てないで。ただの気絶よ。」
手にした鞄を強く握りなおして、私はそのまま立ち上がった。それと同時に男の口からは、まっ黒な煙が立ち込めた。確かに、傍から見れば死んだも同然かも知れない。そんな顔を青くさせて恐怖する智尋を安心させるため、私は限りなく優しい言葉で慰めた。
「安心して。」
ちっとも効果が無いのは、自分でも分かった(汗)。
「命ちゃん、学校の敷地内で大胆すぎるよ。この間だって、学校を盗撮しようとしていた男の人をボロ雑巾みたいに扱っていたし。」
「智尋。痴漢と盗撮は女の敵よ?それだけは覚えておきなさい。」
「…それに、やっぱり男は強さじゃ無いよ。」
「?それじゃ、何なの?」
私の他愛の無い疑問に、何故か右手に拳を作ってまで、智尋はこう叫んだ。
「一風変わったアクセサリーの似合う男!」
「車が来たわ。」
「あ、無視した。」
私の目の前に黒く光る1台の高級車が、礼儀正しく停車した。ホイールに刻み込まれた「葉隠」の文字が、私の家の所有物である事を嫌と言うほど示していた。
「無視していないわ、ちゃんと聞いている。別に智尋を馬鹿にした訳じゃ無いのよ。分かってくれる?」
「うん。」
「…フフ、良いじゃない、理想の男性像を持っている事は。それくらいの楽しみをしっかり持っているから、智尋は楽しいのよ。」
「それって褒めているの?」
「褒めているに決まっているじゃない。変わらぬ日常に一つまみのスパイス、人生はこれだから楽しいのよ。」
私がそこまで話した時、ふと目の前にじいが、ドアを開けて待っている姿が見えた。
「お嬢様、智尋様もご一緒でしょうか?」
「…ハァ、これだからじいたちは面白く無いのよ。もうちょっと楽しませて欲しいものね。」
本当、この人たちは職務重視で、新鮮味が無いわ。私はいつも通りの公務にうんざりしながら、車に乗り込んだ。
「私から見たら、十分スパイスだけどな〜。」
そう言いながら智尋は私と同じ後部座席に、私の隣に座った。
「失礼しま〜す。」
「どうぞ。」
「ところでお嬢様、こちらで倒れている方は一体…?」
じいは先程の不審者を怪しげに見ながら、私にそう尋ねてきた。私が自分で不審者を伸してしまう事があるので、彼はこうした不審人物に対して必ず私に尋ねるようにしている。この正確且つ迅速な判断を感じるたび、じいの凄さを実感する。
「放っておいても良いわ。他の生徒には一切手を出さない人だから。」
「分かりました。」
じいはそう一言呟くと、まだ開けっ放しのままだった扉をバタリと閉めた。それを待っていたかのように今度は智尋が、扉が閉じた瞬間に私に尋ねてきた。
「ねぇ、命ちゃん。命ちゃんの理想の男性像が『強い人』なのは分かったけど、気になる人はいないの?」
「私…?」
私は返事に困りながら、彼女の顔色を伺った。そのキラキラ光る瞳は、私の返事に期待する気持ちを抑え切れないといったものだった。普段なら質問をはぐらかし、言葉を濁す私だけど、あまり彼女をそんな扱いには出来ない。観念したような含み笑いをした後、あっさりと答えた。
「そうね…いるわよ、少し前から気になる人が。でもまだ駄目、付き合えないわ。彼はこれから、もっと凄い事を成し遂げちゃうんだから。その後なら何だって良い位、格好良いんだから。」
|