>>水鏡
彼の打ったコンクリート片は鋭い勢いで加速し、見事僕の体に穴を開けた…という事は起こらなかった。快音を響かせるはずのバットは、鈍い音しか立てなかったし、真っ直ぐ飛んでくるはずのコンクリート片は、弧を描いて外へと飛び出してしまった。
「くそ、『ファール』か。」
「ふぁ、ファール?」
「そうだ。俺の技の名前だ。真っ直ぐ飛べば『アクセル・スマッシュ・ピッチャー返し』。今みたいなやつは『アクセル・スマッシュ・ファール』。分かるか?」
少し自慢するように、王手君はニヤリと笑った。失敗した時にも名前がついているあたり、かなりのお気に入りなんだろう。
「ぎゃーーーー!!」
その時壁の向こうから、子分の叫び声が聞こえてきた。その声は体育館のコンクリートに染み渡り、そしてどこかへ発散させた。そして最後に僕らを包んだのは、心獣への恐怖が創りだす静寂だった。
「…。」
「…。」
何も聞こえなくなってしまった。
「水鏡――――!!」
「無罪だ―――!!」
彼は適当な大きさの破片を拾うと、所構わず僕に打ってきた。
「うわぁぁ!!」
それを避けた瞬間、今度は足元に木の枝が飛んできた。まずい、手当たり次第打つつもりだ。彼は滅茶苦茶に打ちまくりながら、僕を追い詰めようと走り続けた。僕はそれらを全てかわしながら、彼から逃げ続けた。僕は彼と距離を離す事がなかなか出来なかったけれど、あれだけの火の玉を避け続けられたのは奇跡だった。それとも、彼が興奮して手元が狂っていたからだろうか。とにかく僕たちが通った場所には、数多くの穴が開いてしまったのは、紛れも無い真実だった。
「ひえぇ…体育館裏がクレータまみれ!?」
「逃がすかぁ!!」
僕と彼の鬼ごっこは続けられた。これだけ僕らが暴れまわっているのに子分たちの姿が無かったのは、多分彼らが犠牲になった生徒の手当てをしているのだろう。彼には可哀想だけど、今の僕にとっては救いだった。そして一瞬の隙を突いて、僕はなんとか物陰に隠れる事に成功した。
「くそ…どこへ行きやがった?!」
王手君は、見えなくなった僕の姿を探し回りながら、周囲をくまなく歩き始めた。今僕たちは、体育館の入り口付近にいる。逃げ回っている途中、ちょうど手洗い場の下が空洞になっている事に気付いたので、今そこへ隠れているのだ。見つけにくい場所だったから、探すのも大変な筈だ。いきなり走りだしたものだから、体中が痛い。でも、そんな悠長なことは言っていられない。呼吸を落ち着かせてから、しばらくこれからの事を考えた。
「この野郎!出て来い!」
この状況…どうすればいいのだろうか。誰か人を呼んだほうが良いのだろうか。いや、彼らに僕の存在がバレてしまった以上、なるべく人に知られない方が良い。でも、僕1人じゃ無理だ。どうする…?!
「おい!逃げても無駄だぞー!!」
…そうだ、良君たちだ!もし僕の存在がバレたと知ったら、なんとか手助けしてくれるかも知れない!それに戦闘になった時でも、他の人を呼ぶよりも明らかに有利だ。とにかく事態の収拾をつけるため、僕はズボンのポケットにしまっていた携帯電話に手を掛けた、次の瞬間、
「見〜つけた〜…。」
笑いを堪えたような口調に、僕はゾッとした。信じたくない事実に、僕はゆっくりと振り向いた。そこにいたのは、まるで弱りきった獲物を楽しそうに狩る、王手君だった。咄嗟に逃げようとしたけれど、出口は彼の方にしか無かった。事実上、閉じ込められたのだ。隠れたと思った自分の行動が、裏目に出てしまった。
「…一気にいくから、安心しろ。」
それだけ言い残して、彼はコンクリート片を投げ上げた。


今までで一番大きな音を響かせながら、彼渾身の一撃が、手洗い台に直撃した。もう死んだと、本気で思った。破片でいくつも切り傷は出来たけれど、奇跡的にもコンクリート片は、僕の体をかすりもせず、地面に埋まった。横たわる僕の目の前に、彼は怒りを込めた顔を見せていた。
「くそ…!運の良いやつめ!!」
手洗い台は派手に崩れ落ち、捻じ曲げられた水道管はひび割れ、水が勢いよく漏れ出した。
「分かるか…俺たちの怒りが…あぁ?!」
水は地面に降り注ぎ、水溜りを作っていく。
「お前の…お前のつまらねぇコトのおかげでなぁ…!!」
そしてそのまま池となった水が、僕の傷ついた右手に触れてきた。傷口が痛む。
「俺たちは暇になっちまったんだよ!!」
崩れた破片を宙に上げ、彼は最後の一撃のための体勢に入った。
「死にさらせ!!『アクセル・スマッシュ』!!」
そして体育館前に、耳が痛む程の快音が聞こえてきた。


彼の脳内には、打ち放った破片が真っ直ぐ僕の頭に向かっていく光景が見えていた筈だ。そして彼は、確実に『やった!』と思ったに違いない。いや、この状況なら誰もがそう思うだろう。真っ直ぐ、真っ直ぐ向かっていく破片は、だんだんと緩やかなカーブを描き、そして僕の頭ギリギリをかすめ、そしてそのままどこかへ飛んでいった。破片は恐ろしいスピードを保ちながら、体育館の屋根へ突撃し、細かな破片を散らばせた。
「……あ?」
「王手君…だったよね?」
呆ける王手君には構わず、ゆっくりと…僕は立ち上がった。
「つまらねぇコトをしたから殺すなんて…それが一番『つまらねぇコト』だよね?」
「…え?」
彼はひっきりなしに、あらぬ方向へ飛んでいった破片と、僕と、そして自分の心獣であるバットを見比べている。彼には、何も分からない。
「そんなところを見ていても、無駄だよ?」
「…なんでだよ…。」
「さすがに、僕ももう逃げられないからね。」
「なんでてめぇ、死んでねぇんだよ!?」
怒った、というよりは逆ギレした王手君が、ふたたびバットに快音を鳴らした。もう分かっていた。彼の狙いはもう、僕の頭以外無い事を…。やはり彼が打ち放った破片は、僕の手前でカーブし、そしてどこかへ飛んでいった。
「な……!」
「何も見えないの?」
やはり、相当混乱していたらしい。僕の言葉に、彼はようやく気付いたようだ。僕の眼前全てが、薄い水のカーテンで覆われていた事を。僕の右手には、先程触れていた水が纏わりついている。そしてそれが変形し、緩やかなカーテンを作り出していたのだ。飛んでくる物体はそのカーテンに沿って向きを変え、そして弾かれたのだ。
「まさか…!これがお前の…心獣?!」
「『アース・ブルー』!!」
叫ぶなり僕は、水のカーテンを一気に解除した。水はその形を失い落下するも、この右手からは離れない。そのままゆっくりと水は、今度は僕の拳を覆うグラブへと変化していった。僕の心獣『アース・ブルー』は、触れた液体を操る心獣なのだ。
「んなろっ…!!」
水のグラブに対して王手君は、釘バットを振り下ろした。僕とパワー勝負する気らしい。それなら僕も受けて立とう。上から振り下ろされるバットに対して、僕はアッパーで彼の顎を狙った。
「どっちの心獣の方が、パワーがあるか、勝負し――!!」
彼が叫び終わる間もなく、彼のバットはゆっくりと水に取り込まれ、グラブは何の妨害も受けていないかのように、彼の顔面を強打した。
「っ………!?」
「ゴメンね。このパンチは、そんな攻撃じゃ受け流せないんだ。」
下からの衝撃に、彼の体がほんの少しだけ浮いた。それを見逃す筈も無く、僕は右手の水を一気に打ち飛ばした。大きな弾丸と化した水の集合体は、彼の体を包み込み、そして数メートル先まで弾き飛ばした。最後の一撃が効いたらしく、地面に体を叩きつけられた王手君は、僕の呼びかけに反応が無くなっていた。さすがに僕は慌てたけれど、呼吸はあったし、それに少しだけ意識があったから、とりあえず安心した。
「『柔よく剛を制す』…良い言葉じゃない、僕は好きだよ。」
依然大破された手洗い台からは、僕の身を守った水が、噴水のように宙を舞っていた。

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