彼はよく周りから『名前を何と呼べばいいか分からない』と言われ続けてきた。
彼の名前は臨である。『臨界点』の『臨』と書いて『のぞむ』と呼ぶ。こちらはまだ呼んでくれる人がいる。5人に1人は呼んでくれる。問題は苗字だ。
彼の苗字は左沢である。『左』と『沢』をくっつけて、『あてらざわ』だ。別に奇妙過ぎる名前では無い。でも誰も読めない。彼が言うに、30人に1人いれば多い方だとか。
でも、上の名前はこの際どうでも良くて、肝心なのは彼の名前が『臨』という事だ。どれだけ壁が高かろうと、どれだけ芸術が認められまいと、常に挑み続ける。それが『臨』。
この何とも志の高い名前を、臨――ピカソは気に入っている。
臨の朝は遅い。もう部屋の時計は12時過ぎを指している。毎晩落書きをし続けているのだから、当然といえる。
「もうこんな時間かよ。もう少し早起きしたいな」
彼はベッドからのそのそと這い出ると、ダンボールで出来た扉を開け放った。目の前には川原が広がっている。緩やかな流れの川に、遠くから聞こえる野球少年達の声。頭上では今日も、ガタゴトと電車が走り去っていく。
「今日は良い天気だな。雨が降る心配も無さそうだ」
臨は靴を履き、外へ出た。乾いた雑草をくしゃりと踏み潰すその靴には、インク瓶と筆をあしらったシルバープレートが輝きを見せる。この1辺2メートル強四方のダンボールハウスが、彼の家だ。堤防に広がる広場は、日当たりが良い事に気付き、ずっとここに住み着いているのである。雨を凌ぐため、高架下に設置したあたり、彼の本気が窺えるだろう。
彼の出で立ちは、はっきり言って奇妙極まりない。黄色とオレンジの混ざったハチマキと、赤ワイン色のシャツ1枚に、膝までしかない薄黄色のズボン。青みがかった彼の黒髪がボサボサなのは、寝癖のせいではなく、髪質によるものだ。
臨は、堤防のすぐ傍にあるボロアパートを訪れた。知人がいる訳では無い。1階の端の部屋には誰も住んでいないのに、毎朝新聞が届けられるのを、彼は知っているのだ。毎度それを取ってしまうため、新聞屋も住人不在に気付かない。
「俺は、夜逃げした人だと思うけど……」
何の悪びれる様子も無く、彼はポストから半分顔を出した新聞を、ガタリと抜き取った。
「ま、俺の知ったこっちゃ無いね」
新聞を片手に、彼は『我が家』へ戻った。タダで新聞という情報を手に出来るのは、彼にとってとても有難い事である。バサリと開かれた新聞に目を通す臨。
「俺は無神論者だけど、この事を神に感謝する必要があるな」
そんな事を呟きながら、臨は新聞を読み進めていく。そしていつも、この文字を目にするのだ。
『ピカソ 再び現れる』
『星観(ほしみ)警察 異例の記者会見』
『警告に反省の色無し? 止まらないピカソの落書き事件』
ピカソに関連する記事を読んでいる間ばかりは、さすがの臨もしばらく黙ってしまう。
「俺は……芸術の好き嫌いは仕方ないと思うんだ。欲求の1つである食べ物ですら、好き嫌いがあるんだからな。感性の違いは大事な事だ」
彼は、ろ過装置にかけた川の水を飲み、コップを手で握りつぶしてしまった。
「だけど! 芸術を『落書き』呼ばわりだけは我慢出来ないね! くそ! あれだけの大作がどうして落書きだと思うんだ! どう考えても傑作だろうが! くそ! くそ!!」
新聞をぐちゃぐちゃと丸め――破ると読めなくなるから――それを何度も壁にぶつける臨。彼が描いた絵はいつも『落書き』として、しかもその日のうちに消されてしまう。普通の落書きならしばらく放置される事を考えると、この処置は極めて『迅速な対応』と言えよう。
臨は荒い息を静め、皺くちゃになった新聞を広げ直した。
「くそ、誰だよ、新聞をこんなにしたのは?」
自分である。
「どうして皆、俺の作品を駄作扱いするんだろうな。何か理由でもあると思うけど……」
誰でも、自分の限界を認めたくないがために強がる事はあるだろう。彼の場合それは万年で、しかも天然ときた。果たしてそれを自覚する日はいつ来るのだろうか。
やがて彼の視線は、とある記事に集中する。それは今年の流行ブランドに関するもので、今までに流行ってきたお洒落が書かれているものだ。
「俺はお洒落に興味無いけれど、時代を読み取る力ってのは大事だと思う」
この瞬間、彼に1つの答えが生まれた。
「つまり、俺の芸術は時代遅れかも知れないな。隠居同然の生活だから、時代の流れに気付かなかった、という事だ」
『口にしたらとりあえず実行』がモットーの彼にとって、次に出てくる言葉は分かりきったものである。
「美術館にでも行こう。そこで模写でもして、技術向上だ。今日は天気も良い。傑作が描けそうだぞ」
ポケットに財布を突っ込み、画材道具一式を入れた手提げ鞄を手にすると、彼はそのまま家を飛び出した。一番近い美術館まで、バスで15分。この利便性もまた、彼がこの地を選んだ理由である。
「今日は帰らず、そのまま傑作を描きに行こう。待ってろ、民衆。俺の芸術に腰を抜かしてる暇は無いからな!」
臨は高笑いをしながら、彼はバス停へ赴くのであった。
ピカソが外出して、およそ数分後。1人の人間が、線路脇から姿を現した。扉に手を掛けたその人物は、少し驚いた声をあげる。
「あら、鍵が掛かってないわ」
女性だった。年齢にして20代の真ん中といったところか。
「それだけ治安が良いって事かしら。本当に便利ね。手首を捻って筋を痛める心配も無いなんて」
家の中に入った彼女は、まず机の上に広げられた、皺くちゃの新聞に目を通した。その紅の目があの流行に関する記事を見つけた時、彼女は感心する。
「なるほど。それで美術館へ出掛けた訳ね。勉強熱心じゃない」
彼女は周囲を見渡した。流石は芸術家の秘密基地、筆や塗料は山ほどあった。これだけあれば、少しぐらい拝借しても問題無いだろう。それに今日は、このまま帰らないとも言っていた。
「それじゃ、作業に入りましょう」
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