青白く輝く満月が、次第に高度を落としていく午前2時。この草木も眠る丑三つ時ですら、激しく活動を続ける生物がいるとしたら、それはきっと人間だろう。
 その晩、町の交番に1本の電話が入った。『よその家の塀に落書きをしている人物を見かけた』という、他愛も無いものだ。現行の法律でいえば『器物破損罪』にあたる罪である。だが、当番の警察官達は目の色を変え、交番を飛び出した。けたたましくサイレンを鳴らしたパトカーに乗り込むは、2人の警察官。
 現場に着くなり、彼らは叫んだ。
「止まれ! 止まりなさい!」
 今まさに逃げ出した犯人の影を目撃し、慌てて駆け出す警察官。この近辺は曲がり道が多く、すぐに犯人を見失いそうになる。警察官のうちの1人は、つい先日、この地域の交番にやって来た新米である。彼はそこで、先輩警察官から聞いた話を思い出していた。
「この町では、夜中に落書きをされる事件が多発している。しかも犯人は、我々が如何に包囲網を作っても、いとも簡単に逃げ延びてしまう。良いか。夜中に落書きの電話があったら、いの一番に駆けつけろ。そして奴を追い詰めろ。奴の名は『ピカソ』だ!」
 逃げる影の正体は、新米の彼にも分かっていた。彼は犯人を追い詰めるためにも、大声で叫んだ。
「止まりなさい! ピカソ!」
 雲1つ無い夜空の下、全速力で駆け抜ける3人。先頭の影が、とある曲がり角に隠れた時、先輩警察官はニヤリと笑った。この時、新米警察官は、車中で話し合った作戦を思い出していた。
「『追い詰める』?」
「そうだ。あの地域は相当入り組んでいて、すぐ袋小路になるんだ。そこまで追い詰めたら、さすがのピカソもお手上げだろう、という魂胆だ」
「しかし、塀を乗り越えて、民家に潜まれませんか?」
「心配いらない。あそこは泥棒の被害が多かったため、民間人達が壁を高くしていった地域だ。何せ、歴戦の泥棒が『あそこだけは登りたくない』と言った程だからな」
 地図を何度も確認し、土地勘をつけていた彼らは、構わず大声をあげながら、次第に犯人を追い詰めていった。何故ならこの先は、誰も越える事の出来ない、高さ5メートルの袋小路が待ち受けているのだから。
「追い詰めたぞ、ピカソ!」
 犯人――ピカソの目に、その壁は飛び込んできた。満月の光も届かない、真っ暗な空間は、まるでブラックホールそのものである。今までに何人の犯罪者が、ここで法の裁きに飲み込まれたであろうか。
「……『追い詰めた』だって?」
 そう呟くなり、口の端が釣りあがるピカソ。この直後、彼は何をしたと思うだろうか?
 答えは簡単。『速度を下げず、走り続けた』のである。
「だから誰も、俺を束縛出来ないんだよ?」
 ピカソは肩提げ鞄から、1本の大きな筆を取り出した。それは美術で使われる筆である。毛先には既にドロリとした黒い液体が塗りつけられている。その色艶から、どちらかというとペンキに見えるが、筆もペンキも、どことなく透明に見えた。
「『ホワイト・カンバス』!!」
 彼は走りながら、空に筆を振る。空中に筆を動かしても、勿論絵など描く事は出来ない。どうやら追い詰められた犯人の、最後の悪あがきのようだ。しかし、彼は至って真面目である。何故なら、彼の筆は、その空中に黒い『線』を描いていたのだから。
 描かれた黒い線は、筆の先から続いている。それが十分な長さに達した時、ピカソはその線に足をかけた。すると線は、地面に落下する事も無く、彼の体を支えたのだ。
「浮いているんじゃない。『描かれている』んだ」
 足場の線を蹴り上げ、ジャンプするピカソ。彼は落下するよりも早く、再び筆を動かした。その曲線を描いた軌跡に沿って、また新たな線が描かれていく。今度はそれを片手で掴み、両足の反動を使って跳躍した。その姿はまるで、鉄棒を使って遠くへジャンプしたかのようである。
「よっ……と!」
 彼の両足は遂に、高さ5メートルを越す壁の頂上を踏みしめていた。彼の足元から、2人の警察官の声が響いている。
「き、消えた?!」
「誰1人逃れられなかったこの壁を、どうやって?!」
「先輩! ピカソはどこに?!」
「分からん! だが、まだ近くにいる筈だ! この周辺を徹底的に探し出せ!」
 位置の乱れたバンダナを直しながら、ピカソはふぅと深い溜め息をついた。
「ヘリでも出して空から探せば、流石の俺も見つかるっていうのに……ケチな事をするなぁ。尤も、こんな片田舎じゃ、無理な話だけど」
 壁の上を渡りながら、彼は現場を去った。
「俺は捕まる訳にいかない。認められるまで。俺の芸術が、世界に知られるまで」
 背を向けて歩く彼に、いつの間にか肩提げ鞄は、その姿を消していた。


 早朝、あの警察官は改めて現場を訪れた。
「これがピカソの作品か」
 壁一面に描かれていたのは、奇妙な落書きである。四角い顔をした人間っぽいものが、緑色の太陽風日光を浴びながら、黒色の天使的存在を眺めている、と思われるものだ。
「……何ですか、これは?」
「お、ここに作品名が書かれている」
 彼らの間で、ピカソが必ず端にタイトルを記入する事は、周知の事実である。
「『ミケランジェロ 天地創造』……?」
「あ、知っています。イタリアのシスティーナ大聖堂の天井に描かれているやつですよ」
「似ているのか?」
「遠い面影以外は、何も似ていませんね」
 先輩は押し黙った。そうなのだ。ピカソの絵は、誰が見てもくだらないのである。ただ、その画風がかの有名な、往年のピカソのそれと似ているため、『ピカソ』と呼ばれているのだ。『上手い・下手』で言えば、ピカソは『下手』な方である。
「これ、残されるんですか?」
「お前は、こんな気味の悪い落書きを残したいか?」
「今すぐにでも消します」
「多分、今日中に全周辺住民が消すと思うよ」
パトカーに乗り込みながら、先輩は溜め息をついた。
「全く……そこらの不良の方が、よっぽど芸術的だよ」

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