シュレーリンガーの猫


僕は猫、旅に出る
自慢のひげに誘われて
僕は猫、旅に出よう
にぼしとするめを握り締め
僕は猫、旅に出た
やっぱり外は気持ち良い
僕は猫、僕は猫
僕は…猫


「やぁ、今日も見回りかい?まだ若いのに感心だねぇ。」
ブロック塀の上を歩く僕を見て、近所の長老が声をかけてきた。僕はえへんと胸を張った。
「違うよ。僕はしばらく旅に出るんだよ。」
「そうか、旅に出るのか。それは良い事じゃ。『可愛い子には旅をさせよ』と、昔から言うからのう。」
しゃがれた声で笑う長老を傍目で見ながら、僕は足を進めた。
「まぁ、気をつけなさい。今日は一段とひげが痺れるからのぅ、雨には気をつけるんじゃ。」


「よぉ、どうしたんだ?そんな大層な荷物背負っちゃってさ!」
友達の彼は毛皮が茶色い。羨ましい程きれいに手入れされた毛並みに目もくれず、僕は歩き続ける。
「見て分からない?これから旅に出るのさ。」
「旅だって?それはおもしろそうだなぁ!」
「遊びじゃ無いよ。旅に出るんだよ。」
僕は少し大人びた雰囲気を作るため、澄まし顔をした。
「これから港まで歩いていって、海を眺めるんだ。そして海岸に打ち寄せる波に飽きたら、そこから帆船で島を目指すんだ。お魚が一杯獲れるところが良いなぁ。朝一に港の船を訪れて、漁師のおじさんたちから新鮮な鰯を貰うんだ。」
僕の熱弁を聞いて、遊ぶ事しか興味の無い彼も、この旅に魅せられたらしい。鼻息を荒くして、彼は僕に体を摺り寄せてくる。
「なぁ、なぁ!僕も連れてってくれよ!僕も海が見たいな!美味しいお魚、食べたいな!」
僕の横でごろにゃぁごろにゃぁ声を出す彼に、僕はボソッと呟いた。
「いや君は早くその虫歯を治さなくちゃいけないからダメ。」
彼を素早く家に帰して、僕の旅は続く。


「うぅ…参ったなぁ…。」
雨が降ってきてしまった。僕の旅は一時中止。背中のするめをしゃぶりながら、雨がやむのを待った。
「そのするめ、少しだけ分けてくれるかな?」
ふと気付けば、隣におじさん猫がいた。おじさんは僕に、君と同じように雨宿りさ、と付け足した。
「足でも良い?」
「良いとも、良いとも。」
僕は足を1本だけ噛み切ると、それを彼の前に差し置いた。おじさんは小さく礼をすると、くちゃくちゃと音を立てながら、するめの足をしゃぶりだした。
「おじさんは、どこに行こうとしていたの?」
「私は近所の空き地にある土管の中で、昼寝をするためさ。君もその類かな?」
まさか、と僕は言った。
「旅に出るんだ。海のきれいな島で、自然に囲まれて、ゆったり優雅に暮らすんだ。」
「ははは、それはまた贅沢だ。」
おじさんはニコリと笑っていたけれど、急に顔の筋肉に込めた力を抜いた。
「しかし、君はどうしてそこに行きたいんだい?ここには色んなものがある。少し田舎で不便はあるが、ここなら何でも揃っている。君はどうしてそこに行きたいんだい?」
何も自分から辺境の地へ旅立つ事も無かろう、そうおじさんは呟いた。僕は口いっぱいにするめを頬張りながら、表情の無い顔で答えた。
「僕は生まれてからずっとここにいるから、たまには違う景色を見たいんだ。それだけなんだ。」
「…そうか。」
おじさんはいつの間にかするめを食べ終えていたらしく、潮臭さの残る口で、自分の尻尾の手入れをしていた。
「まぁ、それも良い勉強だ。昔から伝わる言葉だ、『可愛い子には旅をさせろ』とね。」
「それは、さっき長老からも言われました。」
「…それくらい有名って事だよ。」
照れ笑いを必死に隠すため、おじさんは空を見上げた。雨足は弱まっていたけれど、降り止む気配が無かった。曇った表情を見せる僕を気遣ったのか、おじさんは口を開いた。
「安心しなさい。雨は10分後に降り止むよ。おじさん、降るかどうかは分からないけれど、止むかどうかだけは百発百中なんだ。」


雨が上がってから2時間程くらいで、僕は目的の港に辿り着いた。鼻の奥に潮の香りが漂って、ムズムズした。
「やった!海だ!」
今までの疲れた足取りが嘘のように、僕は元気一杯走っていた。僕の動きに合わせるように、足元の屑は風に吹かれていく。砂の感触を肉球で感じながら、僕は初めて海に触れた。
「うわっと!」
一旦退いていた波がやって来ようとした瞬間、僕は空中で体を捻り、咄嗟に浜辺に駆け寄った。僕の目の前ぎりぎり一杯まで波は押し寄せ、そしてふぅっと退いていった。
「あぁ…怖い、怖い。体が濡れるところだった。」
全身が濡れてしまうのは怖い、でも僕の目の前で踊り続ける波の誘惑には勝てそうに無い。そんな曖昧の真上に立ったまま、僕は本能で遊ぶ。ごわごわと吹き続ける潮風に撫でられながら、ひらりひらりと舞い続ける。足先が濡れるくらいなら、まだまだ平気。そうして僕が遊び終えた時、既に太陽は赤く燃え、あの水平線の半分まで浸かっていた。
「あぁ、しまった。少し遊びすぎちゃった。」
猫の泣き声一つを奏で、夜をその浜辺のそばの松の木の下で過ごす事にした。潮の香りを調味料に食べるにぼしは、最高だった。そして強い海風を体に浴びながら、僕はすぐに深い眠りについた。


僕は猫、夢を見る
僕の体が宙に浮き
僕は猫、夢を見た
体が二つに割れていき
僕は猫、夢なのか
片割れは既に消えている
僕は猫、僕は猫
僕は…ここ


目が覚めた。まだ空が白み始める頃だった。いつもと違う枕のせいか、眠りが浅かったみたい。大きな欠伸を一つ、大きな伸びを一つ、毛繕いを三度、そして視界に人が現れた。
「やった!僕の考えた通りだ!」
僕は駆け出した。目の前にいた人たちは、漁師のおじさんたちだ。僕は一目散に、彼らの目の前に飛び出した。
「ねぇ、おじさん!僕も連れて行ってよ!あの海に浮かぶ島々に、僕を乗せていってよ!」
おじさんたちは口々に笑い声を上げるだけで、全然僕の話を聞いてくれない。
「ねぇってば!どうして僕の話を聞いてくれないの?一緒に行きたいよ!」
するとおじさんのうちの1人が、僕に手を差し伸べてきた。
「やったぁ!」
僕は夢中で、おじさんの掌を舐めた。おじさんは笑っていた。やがておじさんは他のおじさんたちに呼ばれ、その手を引っ込めた。
「あぁ。」
おじさんは軽い挨拶をしただけで、僕を置き去りにしただけだった。
「そんなぁ、行かないでよ!どうして連れて行ってくれないの?教えてよ。」
おじさんたちの乗った船は大きな音を立てて、海を蹴り上げ、浜辺から離れていった。
「どうしてなの?僕が猫だから?僕が悪い子だから?分からないよ。」
どう叫んでも、おじさんたちは帰ってくる筈が無かった。静かな浜辺で一匹、僕は取り残された。誰も起きていない、朝焼けもまだ来ていない浜辺で一匹、僕は取り残された。
「あぁ、僕は悲しいよ。泣いちゃうんだから。おじさんたちが帰ってくるまで、この浜辺一杯に涙の海を作るんだから。」
僕はにゃぁおにゃぁおと鳴いた。鳴いて、鳴いて、鳴き続けた。陽が上り、鴎が飛び、松の木が風でざわめき始めるまで、僕は鳴き続けた。


そして太陽が真上にまで上がったとき、僕は鳴き止んだ。おじさんたちが帰ってきたのだ。おじさんたちは僕の体ほどもある一匹の鰯を、僕の前に差し出した。僕はお礼をするのも忘れて、その鰯を夢中で頬張った。潮の香りと僕の涙を調味料に食べる鰯は、あまりにもしょっぱかった。それでも僕は我を忘れて、骨まで貪った。食べ終わるまでに時間はかからなかったけれど、お礼を言うべきおじさんたちは、もうそこにいなかった。


「帰ろう。」
骨を舐めながら、僕は呟いた。
「良い経験が出来た。おじさんたちから貰う魚がこんなに悲しいなんて、知らなかった。こんな食事はこりごりだ。家に戻ろう。こっちの方が楽しいけれど、こっちの方が悲しいもの。」
僕は決めた。大きな欠伸を一つ、大きな伸びを一つ、毛繕いを三度、そして足を自分の家へと向けた。
「でも、楽しかったな。いや、悲しかったな。どっちかな?」
真上の太陽に尋ねながら、僕は一匹、家路に着いた。


僕は猫、今帰る
自慢の尻尾に誘われて
僕は猫、今帰ろう
何にもご飯は無いけれど
僕は猫、今着いた
やっぱり家は気持ち良い
僕は猫、僕は猫
僕は…猫


そう、僕は猫

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