赤い花




例年よりも少し暑い秋の日、俺は市内の病院へと向かっていた。足取りは重い。1歩をやっと歩いているって感じだ。正直、あまり行きたいと素直に思えない。むしろ苦しい。あの空気から、どうしても逃げたい。それでも俺は、とある病室へと向かわなければならなかった。
<321号室 霧崎 寿美>
そう書かれたカードの刺さった病室へ辿り着いた。足が震えた。心臓がバクバク鳴った。力の入らない手で、静かに部屋をノックした。
「どうぞ〜。」
若い女性の声がした。その声に導かれるかのように、逆らえないかのように、部屋のドアを開けた。
「あ、お兄ちゃんだ。」
少しビックリしたような声で、妹寿美は俺を見た。頼むから、見ないでくれ。
「お兄ちゃんがお見舞いなんて、雨が降るじゃない。」
「俺もそう思うな。」
「お兄ちゃん、家一番の雨男だもんね。」
それは間違いない事実であった。小学校の遠足6回中4回も、運動会6回中3回も、全て雨だったからだ。思い出はいつの日も雨だ。
「母さん、用事があったから、俺が来た。」
「ふぅん…。」
周りを見回した。年頃の女の子の部屋とは思えないほど、周りには何もなかった。あるのは枕元にある、画用紙と色鉛筆だけだ。
「まだお前、絵ばかり描いてるのか?」
「うん。」
「物好きだな。」
「だってそりゃ、昔からの将来の夢だもん。頑張らなくちゃ、叶わないもん。」
何も無いように、寿美は笑う。それを俺は見ないようにした。顔を合わす事が出来ないから、窓際に置かれた花の交換をする事にした。
「だいぶ枯れてきてたな。」
花瓶に挿された花は、汚い赤になって、机の上に散っていた。
「てかお前も、趣味悪いぞ?」
「どーして?」
「普通、赤い花なんか頼まないだろ。」
「良いじゃない。赤い花、私好きなんだから。」
「…。ハァ、全く、縁起悪いよな…。」
散ってしまった赤い花を花瓶から抜き取ると、俺は持ってきた、これもまた赤い花を順々に挿していった。
「縁起悪くても、死ぬ人は死ぬよ?」
ポツリと言ったその言葉に、俺は全身が凍りついたように思われた。
「迷信なんて、私信じていないもん。どんなに頑張ったって、ダメな時はダメだし、病気だって、治らない事もあるもん。」
「…。おい、寿美――」
「私にとって赤い花は、幸せの花だもん。いつもそうなんだよ?毎年の誕生日の時も、お兄ちゃんの試合に応援しに行った時も、片想いだった先輩への告白が成功した時だって、いつも赤い花が咲いていたもん。赤い花は幸せを呼ぶの。縁起の悪い花じゃないもん。」
「別に俺だって、いつでも縁起の悪い花だ、なんて言って無いぞ?ただな、場所が場所だろ。これじゃ俺たち家族が寿美に『死ね!』とでも言いたそうに見えるだろ。」
「別に大丈夫だよ。」
俺の不安を知ってか知らずか、そう言って寿美は笑った。
「…。だと良いな…。」
力なく、俺はイスに座った。
「…。どうしてそんなに不安なの?」
「…。」
「大丈夫だよっ。先生にも回復してきている、って言われてるし、それにそんなに大きな病気じゃないもん。」
「でも俺は、そう思えなくて仕方無いんだよ!!」
立ち上がって、大声を上げた。寿美を涙眼で睨んだ。言ってから気が付いた。バカな事をした。
「…。」
「お、お兄ちゃん…。」
寿美の困り果てた顔を見て、俺は悲しくイスに座った。あぁ、バカだ、バカだ、バカだ!!しばらく、イヤな沈黙が流れた。
「…。私は死なないよ。」
「だと嬉しいよ。」
つっけんどんに返事をした。してはいけない事くらい、分かっているのに。
「仮に死ぬとしても、それで悲しんでいたら、損だよ?」
「損…。」
「うん。病気なんて、人生を生きる上での通過点じゃない。そんな事でいちいち悩んだり、悲しんだり、苦しんだりしていたら、勿体無いもん。」
もはや何も喋れない。
「私、やりたい仕事があるの。有名なイラストレイターになるの。私の描いた絵が世界中に流れて、それでお互いに気持ちを分かち合うの。言葉も通じないような、知らない人たちとなんだよ?そんな言葉を使わない気持ちのやりとりが、今一番大事だと思うの。」
「…。昔から変わらないな、それだけは。」
「フフ…。」
寿美は軽く笑うと、枕元に置かれていたスケッチブックを手に取り、パラパラとページをめくった。
「このベッドから見える景色を、毎日描いてるの。きれいな朝の景色や、小鳥が歌ってるところ、雷雲が街を覆ってる様子、それに…花のスケッチ。」
「…。」
「結局、『なりたい』って思う事が、一番大事なんだもん。それまで私、死んでなんかいられないもん。」
また、沈黙が流れた。
「もう!どうしてそんな暗い空気になるのよ!」
「いや、俺だって、別にそこまで暗くしたかったわけじゃ――!」
「お兄ちゃんのそのネガティブ思考も、何とか治って欲しいのにな…。」
やれやれ、とでも言いたそうな顔をされて、俺は困り果ててしまった。寿美のこういう性格も、何とか治って欲しいんだけどな、俺も。
「あ…。」
「どうした?」
「雨。」
「え?」
外を見れば、雨が降り出してきていた。それなりに降っている様子だった。天気予報じゃ、雨なんて言っていなかったから、当然傘は無い。
「傘持ってきたの?」
「そんな訳無いだろ。」
「じゃ、濡れ鼠だね。」
しれっと言われた。
「走ればなんとかなるだろ。」
「もう、お兄ちゃんってば、本当に雨男なんだから…。」
そう言いながら寿美は、俺に向かって笑った。
俺も自然に笑顔を返した。自然に返せた。
それを見て、寿美は安心したようだった。




翌朝、赤い花は全て枯れ、しおれていた。
その花の名前なんて、もう覚えていない。
それでも俺は、寿美の最後の笑顔や言葉を、忘れる事など無かった。

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